在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究 

在外日本関連コレクションの調査・研究報告  日本近代史研究者で万国博覧会、博覧会、博物館を研究している伊藤真実子です。 https://x.com/Mamiko_Ito_0927 https://researchmap.jp/mamiko

お雇い外国人のコレクション ドイツ ベルツ

 

明治9年(1876)に来日したエルヴィン・ベルツは、東京帝国大学医学部で外国人教師として教鞭をとったほか、帝室(皇室)の侍医を務めたこと、温泉治療の効用やベルツ水と呼ばれる手荒れを治すための水を考案したことで知られます。また、

 

彼が日本滞在中に収集した美術品、美術工芸品などの多くはドイツに帰国後に過ごしたシュトゥットガルトのバーデン=ヴュルテンベルグ州立リンデン博物館が所蔵しており、またベルツの出身地であるビーティヒハイム=ビッシンゲンの市立博物館にもベルツの日本滞在に関する品々が所蔵されています。

 

これらのベルツのコレクションについては、日本でも過去に展覧会が開催され、図録で見ることができます。

 

大熊敏之、クラウス・J.ブラント監修『江戸と明治の華 : 皇室侍医ベルツ博士の眼』 (大広、2008年)

ヨーゼフ・クライナー、佐々木丞平、佐々木正子監修、ドイツー日本研究所編『ベルツコレクション 帰ってきた幕末・明治の絵画 ドイツ・リンデン博物館所蔵』 (朝日新聞社、1993年)

 

また、河鍋暁斎が病に伏した際にはジョサイア・コンドルの紹介により暁斎を診断したことから暁斎の絵を所有していたほか、日本画、浮世絵のコレクションも多数所有していました。

河鍋暁斎と在外コレクション お雇い外国人、コレクターとの交流 明治から現在へ - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

ベルツは自身の専門である医療関係の書籍、論文のほか日記を残しており、その日記は息子のトクにより書籍化、刊行され現在は岩波文庫から刊行されています。

ベルツの来日時期における当時の暮らし、幅広い交友などがその日記から垣間見ることができます。

 

河鍋暁斎と在外コレクション お雇い外国人、コレクターとの交流 明治から現在へ

2026年4月22日から6月21日にかけて東京サントリー美術館にて 「ゴールドマン コレクション 河鍋暁斎の世界」が開催されます。イギリス在住の美術商、コレクターのイスラエル・ゴールドマン氏のコレクションで、氏のコレクションは大英博物館にも寄贈されています。氏のコレクションのなかでも暁斎の作品に関しては世界有数です。

 

幕末から明治期に活躍した絵師河鍋暁斎(1831~89)は、当時日本に滞在していたお雇い外国人、日本に美術品を買いに来た美術商などとも交流があったことから、当時より暁斎の作品は海外でもコレクションされていました。

たとえば、暁斎に弟子入りした建築家ジョサイア・コンドル(1877年来日、鹿鳴館、東京のニコライ堂三菱一号館などを設計)は、直に接した暁斎の様子、日本画の技法について記録を残し、その書籍の刊行により暁斎の名声は海外にまで広がりました。書籍は翻訳されています。山口静一訳、ジョサイア・『河鍋暁斎』( 岩波書店(岩波文庫) 、2006年)

コンドルと暁斎に関する展覧会も過去には開かれています。

参考:「画鬼暁斎 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」(2015年6月27-9月6日、三菱一号館美術館

三菱一号館美術館河鍋暁斎記念美術館編『画鬼暁斎 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル』(三菱一号館美術館、 2015年)

コンドルは、日本アジア協会会員でもあり、暁斎以外についても日本に関する研究を協会でも報告しています。

 

暁斎との交流といえば、医師ベルツもあげられます。コンドルは暁斎が病に伏した1889年、ベルツに診断を頼んでいます。その縁からか、ベルツも暁斎の絵を所有し、それらは現在シュトゥットガルトのリンデン民族学博物館とビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館にあります。(クラウス・J・ブラント「リンデン民族学博物館東洋美術部の日本美術コレクション」(『大熊敏之、クラウス・J・ブラント監修『江戸と明治の華―皇室侍医ベルツ博士の眼』(印象社、2008)13頁。)

ベルツに関しても別項にて解説します。

 

暁斎の作品をコレクションしたお雇い外国人は、そのほかにもいます。たとえばウィリアム・アンダーソンは暁斎に直接作品を依頼しており、その作品は1881年大英博物館に売却しています。

【過去記事】

ウィリアム・アンダーソンと日本研究 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

また、フランスのジャポニスムをけん引した一人でもある実業家エミール・ギメは、画家フェリックス・レガメとともにアジアへの旅行中の1876年に暁斎をたずねて交流を持っています。

 ギメのコレクションはのちに創設されたギメ美術館にて収蔵、保存、公開されていますが、ギメ、レガメの訪日およびコレクションについては別項で触れたいと思います。

 日本における外国人研究協会 OAGドイツ東洋文化研究協会

ドイツと日本との交流は、1861年プロイセン王国から派遣されたオイレンブルク東アジア遠征団が徳川幕府と修好通商条約(日孛条約)を締結したことにさかのぼります。

 

鈴木楠緒子『ドイツ帝国の成立と東アジアー遅れてきたプロイセンによる「開国」』(ミネルヴァ書房、2012年)

福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(東京大学出版会、2013年)

 

維新後、明治政府は近代化を推進するために様々な分野にわたり外国から専門家―いわゆるお雇い外国人を招聘しましたが、ドイツからは、歴史学(リース)、医学(ベルツ)、ナウマン(地質学)など著名な研究者を多く招聘しました。かれらの多くが所属した日本におけるドイツ人を中心とした日本研究協会がOAGドイツ東洋文化研究協会(Deutsche Gesellschaft für Natur- und Volkerkunde Ostasiens )です。

 

OAG1873 年3月22日に創設、現在も存続する日本研究機関で、創設は日本アジア協会(The Asiatic Society of Japan)創設の翌年で、創立日の3月22日は当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の誕生日でした。

 日本アジア協会について

日本研究の歴史 日本アジア協会設立経緯① - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

日本アジア協会 設立経緯② - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

 

創設のメンバーには、貿易などに携わる商人や学者71名が名を連ね、初代会長は初代プロイセン駐日領事として横浜に着任したマックス・フォン・ブラントが務めました。

 

 

創設の背景には当時、日本におけるドイツ人は、イギリス、アメリカに次ぐ三番目の人数であり(フランスと同程度)、先に創設された日本アジア協会がイギリス中心であったためにその対抗心からと言われています。

3番目の人数ということで、すでに日本国内でのドイツ人の集う社交場、クルプ・ゲルマニアKulb Germania(横浜)、クルプ・コンコルディアKulb Concordia(神戸)などは存在し、日本滞在や交易に関する情報交換がおこなわれていましたが、OAGではより研究の意味合いを濃くした機関として設置され、機関紙『 OAG会報』(MOAG:Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Volkerkunde Ostasiens)も1873年に創刊、1875年までに第1巻(全10号)が刊行されました。また創設当初は博物館設置計画もありましたが頓挫してしまいました。

先述のベルツ、リース、ナウマンのほかメッケル(日本陸軍大学校講師・陸軍参謀本部顧問)、ロエスレル、モッセ(憲法 学者)らも会員でした。

 

その中には日本滞在中に日本の文物・美術品を収集した人もおり自国にコレクションを送ったりしていました。そのなかでもお雇い外国人として東京帝国大学で医学を教えただけでなく、皇室の侍医をつとめたベルツのコレクションは、自分で収集したもの、ドイツの地元から収集をいらいされたもの、また皇室からの賜りものなどからなります。ベルツコレクションについては、別項で扱います。

 

【OAG先行研究 参考文献】

サーラ・スヴェン「OAGドイツ東洋文化研究協会の歴史と在日ドイツ人の日本観」(奈良県立図書情感2009年3月22日記念講演会)(http://www.oag.jp/images/publications/oag_publikationen/Saaler_OAG_Nara_Vortrag.pdf)  

スヴェン・サーラ、クリスティアン・W・シュパング(ヤコビ・茉莉子訳)「第一次世界大戦後の日独関係におけるドイツ東洋文化研究協会(OAG)の役割」、杉田米行編『1920年代の日本と国際関係-混沌を越えて「新しい秩序」へ』春風社、2011年、87-122頁。

日独交流史編集委員会編『日独交流150年の軌跡』雄松堂書店、2013年。 

シーボルト父子コレクション ② シーボルトの日本博物館

 シーボルト・コレクションは国内外で保管、展示されていますが、コレクションを持ち帰った時点でシーボルト自身による展覧会も開かれていました。シーボルト自身による展覧会については、近年研究がすすみ書籍の刊行のほか、展覧会も開かれました。

 シーボルト父子のコレクションと日本展示については国立歴史民俗博物館と海外のシーボルト関連文物を所蔵する博物館との共同研究により近年詳細な調査がおこなわれています。

 

 これらの研究によると、父フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは一度目の訪日時に収集したものを1832年ライデンのシーボルト自宅にて公開展示、のちにこのコレクションは1838年にオランダ政府に買い上げられました。さらに 1859 (安政6)年から1862 (文久2)年にかけての2度目の来日時の収集品は、帰国後の1863年アムステルダム産業振興会館で展覧会を開催して展示、その後、生まれ故郷ヴュルツブルグのマックスシューレ(公立マックス職業学校)において展示、1866年にはミュンヘンの宮殿にて展示されることになりました。シーボルトの死後、コレクションは生前の約束により1874年にバイエルン政府によって買い上げられ、1868年に設立されていた民族学博物館(現在のミュンヘン5大陸博物館)が所蔵するにいたります。

 

 国立民族学博物館にて『よみがえれ!シーボルトの日本博物館』展が2016年7月12日から9月4日にかけて開催され、その後各地を巡回しましたが、この展覧会では1866年にミュンヘンの宮殿でおこなわれたシーボルト監修による最後の日本展示が再現されました。当時ミュンヘンの会場では、7室のうち3つの空間が日本の展示で、残りは中国・インド・東南アジア・アフリカ・オセアニア・先史時代・アメリカからの文物が展示されました。

 

企画展示 | スケジュール | こどもれきはく(国立歴史民俗博物館)

企画展示「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」 | レポート | アイエム[インターネットミュージアム]

 

【参考】国立歴史民俗博物館監修『よみがえれ!シーボルトの日本博物館』(青幻舎、2016年)

 

長年のシーボルトに関する国立歴史民俗博物館ミュンヘン五大陸博物館、ウィーン世界博物館、ブランデンシュタイン=ツェッペリン家、ボーフム大学図書館による国際共同研究調査の成果は、各機関を横断してシーボルトコレクションの検索ができるようにもなっています。

https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/pfvs/db_param

シーボルト父子によるコレクション ①

 江戸時代、オランダ商館員として来日した人物が収集した文物を本国に送る、もしくは持ち帰った後、本国などで展示、公開された事例があります。例えば、ケンペル、ブロムホフ、フィッセル、シーボルトなどです。

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示② ケンペル 大英博物館 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold、1796-1866)は、ドイツのヴュルツブルグに生まれた医師、博物学者で1823年8月に来日、長崎出島のオランダ商館医として活動したほか、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し西洋医学を教えました。また、オランダ商館長の江戸参府に同行した際など日本各地をまわるなかで多くの文物を収集し本国に送付、もしくは持ち帰ったほか、出島内に植物園を開設して多くの植物を栽培したほか、植物標本、植物を本国に送りました。

 

 長男のアレクサンダーは父の再来日に同行し、1859年以来日本に滞在、イギリス公使館の通訳となり、後に1867年パリ万博の際には徳川昭武遣欧使節団に同行した。その経験をいかし明治政府にとって初めての万博公式参加となった1873年ウィーン万博では、日本の参加出品のアドバイスをおこないました。(著作に『シーボルト最後の日本旅行』(斎藤信訳、平凡社東洋文庫、1981年)。)

 次男ハインリヒは兄アレキサンダーの再来日に同行して1879年来日、オーストリア=ハンガリー帝国大使館の通訳兼外交官として勤めながら考古学調査、民族学的収集をおこないました。(著作に『小シーボルト蝦夷見聞記』(原田信男訳、平凡社東洋文庫、1996年))

ハインリッヒについては、国立歴史民俗博物館とウィーンの世界博物館の共同プロジェクトによる調査がおこなわれ2020年にウィーン世界博物館にて特別展「Japan zur Meiji-Zeit. Die Sammlung Heinrich von Siebold(明治の日本―ハインリッヒ・フォン・シーボルトの収集品から)」が開催され、その成果は日高薫/ベッティーナ・ツォルン責任編集、人間文化研究機構国立歴史民俗博物館編『『異文化を伝えた人々 ハインリッヒ・フォン・シーボルトの蒐集資料』(臨川書店、2021年)として刊行されました。

www.weltmuseumwien.at

 

 長女の楠本イネは、医学、蘭学オランダ語を学び、産科医となりました。

 

 父フランツ、そして二人の息子アレキサンダー、ハインリヒもふくめたシーボルト父子の日本関連コレクションはオランダ、ドイツ、オーストリア、日本などで保管、展示されています。 

 

オーストリアの日本関連文物 世界博物館② フランツ・フェルディナント皇太子日本滞在関連 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

ウィーン万国博覧会と日本③ 日本からの出品物の現在ー応用美術博物館(MAK) - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

イギリス内に所蔵されている日本関連文物・書籍コレクションと日本研究(ケンブリッジ大学) - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

和紙コレクション パークス、オールコック、シーボルト - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

 

 シーボルト父子に関する研究は蓄積があり、幕末から明治初期にかけての日本の文物、およびそのヨーロッパでの蒐集、展示、外交など多方面から研究がなされています。

 

 シーボルト(父)はドイツ人ですが、オランダ商館員として来日、国交のないドイツ人としての来日は不可能であったためオランダ人として日本に来日しました。そのため、彼のコレクションはオランダ、とりわけライデン市で多く保管されており、ライデンにある国立植物学博物館,国立自然史博物館,世界博物館(旧国立民俗博物館)などに分蔵されています。

 

 ライデン世界博物館は立命館大学との共同研究により日本関連の文物とりわけ浮世絵、古典籍のデジタル化がすすめられ、データベースが公開されています。

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/RV/

 

 

植物標本ほか、アジサイなども送られ現在はその子孫が育てられています。

シーボルトの植物標本などのコレクションはライデンの国立植物学標本館のほか、ロシアのサンクト・ベテルブルクのコマロフ植物研究所、ドイツのミュンヘンバイエルン州立植物標本館のほか日本国内では東京大学総合研究博物館東京都立大学理学部附属牧野標本館などで保管、展示されています。

2000年には日蘭交流400年を記念してオランダ国立植物学標本館から東京大学総合研究博物館に標本が450点余り贈られ、2003年10月4日―12月7日に東京大学総合研究博物館にて「シーボルトの21世紀」と題した展覧会が開かれました。

シーボルトの21世紀

 

 このように現在もシーボルト・コレクションは国内外で保管、展示されていますが、シーボルト(父)がヨーロッパに持ち帰った時点で、彼自身による展覧会も開かれました。シーボルト自身による展覧会については、近年研究がすすみ書籍の刊行のほか、展覧会も開かれましたが別項目で説明します。

 

ウィリアム・アンダーソンと日本研究

 1891年9月9日、イギリス・ロンドンで国際東洋学者会議日本分科会がフランス人の日本研究者レオン・ド・ロニーを議長として法律協会の図書室で開催されました。その席で、この分科会の名誉事務局長アーサー・ディオシーは日本研究を促進するために世界中の日本に関心を持つ人が一同に会することを目的とする協会をロンドンに設置するという構想を述べ支持を得ました。これがロンドンの日英協会のはじまりです。

フランスの日本研究とレオン・ド=ロニー - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

 日英協会第1回会合は1891年12月8日に開かれ、お雇い外国人として海軍軍医教育を担った医師ウィリアム・アンダーソンが理事長に選出されました。(横山俊夫解説/大山瑞代訳、サー・ヒュー・コータッツイ&ゴードン・ダニエルズ編『英国と日本 架橋の人々』(思文閣出版、1998年)サー・ヒュー・コータッツイ「日本協会百年の歴史」参照)

 

 初代会長ウィリアム・アンダーソン William Anderson(1842-1900)は、そもそもロンドンの病院で外科研修医兼解剖学実験授業の助手として働く医師でしたが、明治政府の命によりロンドンを訪れていた寺島宗則によって新しく設立された帝国海軍医学校・海軍病院の解剖学と外科の教授に任命されて1873年に来日、六年間におよび海軍病院に勤務し、海軍軍医寮で海軍軍医の教育にあたりました。

 アンダーソンは日本滞在中に多くの日本美術品を蒐集しており、帰国後の1883年には約3000点にもおよぶコレクションを3000ポンドで大英博物館に売却しました。さらに日本に関する美術書The Pictorial Arts of Japanを執筆し1886年に刊行します。1896年には日本語訳『日本美術全書』が刊行されましたが、その翻訳者は明治~大正時代にかけて活躍した政治家、文学者、批評家で、伊藤博文内閣では逓信大臣や内務大臣を歴任した末松謙澄です。(末松は1878年に日本公使館付一等書記官見習としてイギリスに留学、1880年ケンブリッジ大学に入学し、法学を専攻する傍ら1882年には抄訳であるが『源氏物語』の英訳を刊行していました。)

 

 また1879年(明治12)6月17日火曜、午後4時から東京・虎ノ門の工部大学校で開かれた日本アジア協会の会合で「日本美術の歴史」を口頭発表し、その論文は同協会の機関誌『日本アジア協会紀要』に掲載されました。(鈴木廣之「誰が日本美術史をつくったのか?-」明治初期における旅と収集と書き物―)(『お茶の水女子大学比較日本学研究センター研究年報』(4)2008年、103頁)

日本アジア協会

日本研究の歴史 日本アジア協会設立経緯① - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

日本アジア協会 設立経緯② - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

アンダーソンの日本美術研究は、のちにボストン美術館の日本美術コレクションの礎をつくったフェノロサにも影響を与えたといわれています。

 

【参考文献】

彬子女王「ウィリアム・アンダーソン・コレクション再考」(『お茶の水女子大学比較日本学研究センター研究年報』(4)2008年 123-132頁。

 

ショイベ収集 「酒呑童子絵巻」 ライプツィヒ・グラッシー民族博物館

2025年4月29日~6月15日(日)にかけてサントリー美術館にて「酒呑童子ビギンズ

」と題した展覧会が開催されています。

www.suntory.co.jp

 

 

絵巻のごく簡単なあらすじは、都の貴族の娘たちが次々に鬼にさらわれる、ということがおこり、鬼退治に源頼光とその家来が鬼退治をおこなう、という物語です。室町時代から江戸時代に人気をはくし、様々な絵巻など物語がつくられました。鬼の住処により大江山系と伊吹山系にわかれるそうです。

 

この展覧会ではライプツィヒ・グラッシー民族博物館(GRASSI Museum für Völkerkunde zu Leipzig)所蔵の住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」も展示されています。

この作品は1877~82にかけて来日していたドイツ人お雇い医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)の蒐集物のひとつで、このほか「四条河原遊楽図屛風」も持ち帰り同じくライプツィヒ・グラッシー民族博物館に所蔵されています。

 

参照 江村知子(東京文化財研究所)「河原の風景―ライプツィヒ民族学博物館所蔵「四条河原遊楽図屛風」について―」 

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2019_10_06_higashi_03_emura.pdf

 

お雇い外国人が日本の文物を蒐集した例はほかにもあり、ウィリアム・アンダーソン収集の日本美術品は大英博物館に所蔵されています。

ウィリアム・アンダーソン

ウィリアム・アンダーソンと日本研究 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

また、『ベルツの日記』などの著作もあるエルヴィン・フォン・ベルツのコレクションはドイツのリンデン州立博物館に彼の収集した日本美術品が収蔵されています。

ベルツとコレクションについては、また別の項目にします。

 

ベルツの親友であり、オランダ商館員として来日したシーボルト、それ以前に来日したケンペルらも医師であり博物学者であったことから様々な文物、植物などを蒐集し本国に送っていました。

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示② ケンペル 大英博物館 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

シーボルトについても別の項目で説明します。