在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究 

在外日本関連コレクションの調査・研究報告 https://researchmap.jp/mamiko

万博と仏教  高島屋史料館 展覧会

大阪、高島屋史料館にて開催中の「万博と仏教 ─オリエンタリズムか、それとも祈りか─」に行ってきました。

 

https://www.takashimaya.co.jp/base/shiryokan/pdf/expo_buddha.pdf

 

www.takashimaya.co.jp

 

基本的には3つの柱

①日本国内での博覧会が明治初期は、お寺での開催が多数

(京都博覧会の開催が西本願寺知恩院など)

  明治初期は神社仏閣、お城などが多かったです。江戸時代からの御開帳、祭りなどなど祝祭空間としての利用、その記憶もあったでしょう。

 

万国博覧会での「仏教」

 この場合は、仏教そのもの(宗教的な意味合い)というよりも、

仏教を前面にだした、日本イメージの展示といったことであり、これが本展覧会の題名「オリエンタリズムか、それとも祈りか─」にも絡む事柄と言えるでしょう。

ウィーン万博の鎌倉大仏(現地での火災により、実際は頭部のみ展示)ほか、シカゴ万博での鳳凰堂(平等院からのデザイン利用)などの、日本パビリオンと国内の仏教建築との関係。

③1970年大阪万博と仏教

大阪万博で建設された仏教関連パビリオン(日本国内の仏教界が関係したもの)、と

アジア各国のパビリオン、展示物が仏教にちなむものであったこと、そしてその多数ぶりが、ほかの万博と一線を画しているということ

 

そしてそれらのパビリオンのその後の利用までも言及されていました。

仏教と万博というと、1893年シカゴ万博開催時に、万国宗教会議が開催されていたので、そこからの研究などもあります。

 

那須理香「1983年シカゴ万国宗教会議における日本仏教代表 釋宗演の演説ー「近代仏教」伝播の視点からー」

『日本語・日本学研究』東京外国語大学国際日本研究センター2015年、NO.5,p81-94

森孝一「シカゴ万国宗教会議 1893年」(『同志社アメリカ研究』26、1990年、p1-21

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Snodgrass,Judith, Presenting Japanese Buddhism to the West : Orientalism, Occidentalism, and the Columbian Exposition,Univ of North Carolina Pr, 2003.

 

 

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示② ケンペル 大英博物館

エンゲルベルト・ケンペルは、1651年9月16日にドイツ北部の街レムゴー生まれの医師、博物学者で1690年にオランダ商館の一員として来日、92年に日本を離れるまでオランダ商館長の江戸参府に1691年、92年の二度随行しました。当時の将軍は綱吉で、眼前のオランダ人に関心を持ち、ケンペルも将軍の命を受け、踊ったり、飛び跳ねたり、歌ったりしたことを記しています。日本からの文物を本国に持ち帰ると、1712年に『廻国奇観』を刊行、ラテン語で900頁からなり、ペルシアの旅で得た知見が主ですが、いくつかの日本に関する論文を含んでいました。序文で今後、『今日の日本』『ガンジス以東の植物界の図鑑』『旅行記』を刊行することを述べますが出版前の1716年11月2日に死去しました。晩年離婚騒動があり、ケンペルは遺書で妻には何も残さず甥を第一相続人とし、原稿を含む遺品は甥の所有となりましたが、いぎりすの医師にして蒐集家ハンス・スローンが、ケンペルの序文の予告から、『今日の日本』にあたる原稿の所在をつきとめ、甥であるヨハン・ヘルマンと交渉し、1723年から25年にコレクションを入手しました。甥がだした譲渡の条件は、英語とドイツ語での出版であったため、1727年 ロンドンで『日本誌』が刊行されました。これはケンペルの原稿をもとにしつつ『廻国奇観』から日本に関する6編の論文を加えたもので、そのなかに「鎖国論」として有名になる論文があります。その後、『日本誌』はフランス語、オランダ語訳、のちにドイツ語版が刊行されました。

 

 ハンス・スローンに購入されたケンペルの遺品はスローンコレクションの中にはいりました。

 

当時、スローン別邸は、「ミュージアム・アンド・ライブラリー」と呼ばれるほど大量の博物資料、書籍、写本類で、博物資料3室 図書資料は6,7室

博物資料;エメラルド、サファイア、ルビー、ダイヤモンドなどの宝石類、昆虫類、多種多様の貝殻、サンゴ、動物標本など2万点、古美術コレクション; エジプト、ギリシア、ローマ、イギリス、アメリカ、日本のものまで、数千点。古い貨幣が3万2000点、絵画、素描300点とも言われました。

スローンは、「遺産をすべて国家に寄贈する。その際、2人の娘にそれぞれ1万ポンドずつ」という遺書を残して1753年1月10日に死去、3月19日に議会で議論さた後に承認されると、国家的な博物館、後の大英博物館が創設されました。したがって、スローンコレクションを土台とした大英博物館には、創立当初から日本関連の文物(ケンペルコレクション)が入っていたことになります。

 実際、現在までにケンペルースローン由来の日本関連文物についての調査も進んでおり、書籍などは大英図書館に、そのほかは大英博物館民俗学部門、および日本工芸美術部門に収集されています。

 

【参考文献】

ケンペル著作

斎藤信訳、ケンペル『江戸参府旅行日記』平凡社 1977年 

(主な研究書)

国立民族学博物館・ドイツ日本研究所編、発行『ケンペル展 ドイツ人の見た元禄時代』(1991年)

オイルシュレーガー・ハンス・ディター「民族学の立場から見たケンペルの日本コレクション」(国立民族学博物館・ドイツ日本研究所編、発行『ケンペル展 ドイツ人の見た元禄時代』(1991年)118,119頁。

 

斎藤信訳、ケンペル『ケンペル 江戸参府旅行日記』、(平凡社東洋文庫、ワイド版2006年)

小堀柱一郎

中直一訳、ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー 『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中公新書、1994年)

中直一訳、ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー 『ケンペル 礼節の国に来たりて』(ミネルヴァ書房、2009年)

ヨーゼフ・クライナー編『ケンペルのみた日本』(日本放送出版協会、1996年)

大島明秀「ケンペル─体系的な日本像をまとめた旅行研究家」 -(ヴォルフガング・ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌眞人共編『九州の蘭学─越境と交流』(思文閣出版、2009年)

 

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示①

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示①

 

日本関連文物の展示というと、万国博覧会がありますが、万博開催以前から日本関連文物の展示はおこなわれていました。

 博物学の隆盛時代の驚異の部屋(ブンダーカンマー・クンストカンマー)に、いわば「遠い所から来た珍しい品」としての位置づけが日本関連文物で、漆器、陶磁器、屏風ほかがありました。

 各地の王侯貴族、コレクターの蒐集コレクションの中にもありますが、ザクセン選帝侯アウグスト強王はドレスデンに、その名も「日本宮」を建て、その中で収集した日本磁器を展示しました。

すでに日本宮については、代表的な研究に以下のような研究があります。主に、陶磁器、美術史、分野からの研究がすすんでいます。

住田翔子訳、コルドゥラ・ビショッフ「ドレスデンの「日本宮殿」 ─ 18 世紀ヨーロッパにおける東洋への熱狂─」(『立命館言語文化研究』(立命館大学国際言語文化研究所、30(3)、2019年))

 

 

また、現在も科研費の共同研究がすすめられているので、今後その研究成果が楽しみです。

 

 

ヨーロッパにおける日本関連文物の歴史

ヨーロッパにおける日本関連文物の歴史

 

神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド1世の息子でチロルの大公となったフェルディナンド2世はオーストリアハプスブルク家の家系で最初に大規模な美術品収集を行った人物です。

 

フェルディナンド2世は1567年以来インスブルックのアンブラス城に美術品陳列室を設けました。のコレクョンの中に漆の日本製の箪笥とインド製と推測される机の天板がありました。これらは大公の死後に編纂された1596年の収蔵品目録に記載があることから判明しています。

 

現在ヨーロッパに残る日本からの文物で、はっきりと日本からとわかっているものは、織田信長豊臣秀吉といった大名からヨーロッパの王侯諸侯へ、もしくは天正遣欧使節などの使節団からの贈答品、イエズス会士ら宣教師たちから本国への土産といったものが考えられます。この場合は、贈答、および所蔵の記録が残っており、そこから由来などが判明している場合が多いです。

 

アンブラス城のフェルディナント2世の場合、母方からのスペイン・ハプスブルグ家にもたらされた(その所蔵は、イエズス会士や、日本からの贈答品と考えられる)から伝わったという可能性が考えられます。

 

この当時、日本からの最高級品として贈答品として選ばれたのは、漆器、そしてその他美術工芸品として屏風などでした。

 

屏風は、ビオンボとして、漆器は、ジャパニングとして、着物はヤポンセ・ロックとして、紙(和紙)も近いものがインドや中国で似せたものが作られてヨーロッパにもたらされることあったったようです。

在外日本関連書籍・文書① キリスト教関係  

 いわゆる「開国」以前の欧米における日本関連書籍は、主に来日した人による紀行文、日本滞在時の体験と、経験をもとにした日本論などがあり、さらにはそれを元として、もしくは引用して記述した著作があります。

 

 まず、キリスト教、主にイエズス会の宣教師による日本における伝道と、それを目的とした滞在時の出来事を記した書簡(本国、もしくはイエズス会本部に送る)、日記などです。例えば、フランシスコ・ザビエルの書簡、ルイス・フロイスなどの宣教師による書簡、報告書、自ら体験をまとめた著作、などがあります。さらに、日本でキリスト教への弾圧がすすむと信仰を棄てなかった信者たちは殉教者とされ、来日した修道士のなかには列聖のために殉教についてローマに詳細な報告が送られた。当時のイエズス会士の日本通信は、ラテン語スペイン語ポルトガル語などで書かれていたが。遅くとも1570年代以降にはドイツ語の翻訳本や紹介文が本格的に出版されるようになっていた

 

日本関連で実際の日本人が渡欧した記録として古く、かつ広範囲にわたり記録がのこされた事象は、天正遣欧使節、そして慶長遣欧使節でしょう。

 現地では、スペイン国王フェリペ2世トスカーナ大公フランチェスコ1世、ローマでは、教皇グレゴリウス13世に謁見しローマ市民権を与えられ、さらには新教皇シクトゥス5世にも謁見しており、その道中や謁見についてなど彼らの一挙手一投足が現地では記録され、絵画に残され、遠く離れた地でもその様子が公布されたりしました。

 

日本関連で実際の日本人が渡欧した記録として古く、かつ広範囲にわたり記録がのこされた事象は、天正遣欧使節、そして慶長遣欧使節でしょう。

 現地では、スペイン国王フェリペ2世トスカーナ大公フランチェスコ1世、ローマでは、教皇グレゴリウス13世に謁見しローマ市民権を与えられ、さらには新教皇シクトゥス5世にも謁見しており、その道中や謁見についてなど彼らの一挙手一投足が現地では記録され、絵画に残され、遠く離れた地でもその様子が公布されたりしました。

1585年にはドイツ語圏を含むヨーロッパ各地で天正遣欧使節に関する報告書や単発新聞が印刷され、日本ブームが巻き起こった。1586年にアウクスブルクで発行され『新聞/日本島便り』は、日本のキリシタン大名の特使として到来した少年使節について「4人の方々は皆非常に聡明であり、主要深く尋常ならざる博識の持ち主である」と絶賛。彼らがローマ教皇グレゴリオ13世に謁見したこと、その後ナポリヴェネツィア、ミネラルのなどを歴訪したことなどを報道。紙面には彼等の似顔絵(姿絵)が掲載されました。

 

天正遣欧使節、慶長遣欧使節については、すでに数多くの研究の蓄積があります。

当時の史料については、東京大学史料編纂所編『大日本史料 第11編 別巻之1 天正遣欧使節関係史料』をはじめとした、『大日本史料』に収集、編纂されています。もちろん、各国の文書館にも残っており、それらの所在、内容を含めて近年研究がすすんでいます。

たとえば、以下のような研究があります。

伊川健二『世界史のなかの天正遣欧使節』(吉川弘文館、2017)

伊川健二「天正遣欧使節の史料学」(「WASEDA RILAS JOURNAL」 8、2020年 357-363頁 。

松田毅一監訳『16,7世紀イエズス会日本報告書』(第1期5巻、第2期3巻、第3期7巻)京都:同朋舎。1987-1998年)

小川仁『シピオーネ・アマーティ研究 慶長遣欧使節バロック期西欧の日本像』(臨川書店、2019年)

 

 このような訪日した宣教師による、日本人の訪欧についての報告だけでなく、それらをもとにした日本に関する研究書も刊行されていきます。

早いものには、ルツェルン市民であるレンヴァルト・ツイザード(Renwart Cysat, 1545-1614)による『真実の報告/新発見の日本の島々および諸王国について/その他のこれまで未知であったインドの諸地方について』(フリブール、1586年)があります。

参考

踊共二「白い肌のアジア人 -1586年ツィザードの『日本誌』(1586年)を読むー」(『武蔵大学人文学会雑誌』35巻4号、2004年、103-151頁。)

 

 やがてキリスト教の布教が禁止されると、オランダ商館長の報告書をはじめとしたオランダ商館関係者の書簡、記録、書類などが本国に送られましたが、これはまた別記事とします。

「開国」以前の海外の日本関連書籍、日本に関する地図

諸外国での日本認識を調べる方法はいくつかありますが、書籍や地図もその一つです。

地図にどのように日本が描かれてきたかは、

日暮雅通訳、ジェイソン・C・ハバート『世界の中の日本地図 16世紀から18世紀 西洋古地図にみる日本』(柏書房、2018年)

鬼塚芽依・早田萌・迫田ひなの編『伝えられた「日本」 地図に見る日本のすがたとその変遷』(西南学院大学博物館研究叢書)(西南学院大学博物館、2020年)

杉本哲也『日本史リブレット44 描かれた近世都市』(山川出版社、2003年)

 

国際日本文化研究センターのweb展覧会 「古版世界地図の中の日本」 

http:// https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/20181226-2/

 

 

などからも調べることができます。

 

欧米、主にヨーロッパにおける日本に関する事柄を含む書籍の刊行がいつ、どれほどの量か、どこの国・地域で、その内容は、現在の所蔵は、などの書誌情報についての研究があります。

 

「日本に渡航した人々による一次史料に基づいた書籍と、その書籍に依拠した二次文献の政策が組み合わさることで、1555年から18世紀まで1500点を超える日本関連出版物が誕生、日本の情報を普及」と小俣ラポー日登美「17-18世紀ヨーロッパにおける日本情報と日本のイメージ」(『岩波講座世界歴史15 主権国家と革命 15~18世紀』(岩波書店、2023年)273頁。)は言及しています。

 

諸外国で刊行された日本関連書籍のうち、日本国内の所蔵状況については、齋藤ひさ子、蛭田顕子、渡邉富久子「日本関係洋古書の我が国での所蔵状況について」(『参考書誌研究』第68号(2008年3月)、9-49頁が詳しいです、

それ以前のものとして代表的な物は以下の通りです。

林杲之介「日本関係欧文図書の書誌」(国立国会図書館利用者サービス部編『参考書誌研究』(1)、1970年)、 73-82頁。

藤津滋生「外国語による日本研究文献の書誌学的研究」(『日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要』( 10号、1994年)、 403-418頁。

 

「開国」以前の古書については、国際日本文化研究センターが調査・収集をすすめており検索できます。

www.nichibun.ac.jp

これは主に欧米での書籍が対象となっています。アジアも含めると『魏志倭人伝』をはじめ古代の漢籍にみられるものなど多数ありますが、欧米の場合、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で言及した「黄金の国」チパングが日本であるとするもの、またそうではないとする研究があります。

片山幹生「マルコ・ポーロ『世界の記述』における 「ジパング」」(成城大学フランス語フランス文化研究会『AZUR』第 6 号(2005 年)所収)。ほか。