在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究 

在外日本関連コレクションの調査・研究報告 https://researchmap.jp/mamiko

万博以前のヨーロッパにおける日本関連文物の展示② ケンペル 大英博物館

エンゲルベルト・ケンペルは、1651年9月16日にドイツ北部の街レムゴー生まれの医師、博物学者で1690年にオランダ商館の一員として来日、92年に日本を離れるまでオランダ商館長の江戸参府に1691年、92年の二度随行しました。当時の将軍は綱吉で、眼前のオランダ人に関心を持ち、ケンペルも将軍の命を受け、踊ったり、飛び跳ねたり、歌ったりしたことを記しています。日本からの文物を本国に持ち帰ると、1712年に『廻国奇観』を刊行、ラテン語で900頁からなり、ペルシアの旅で得た知見が主ですが、いくつかの日本に関する論文を含んでいました。序文で今後、『今日の日本』『ガンジス以東の植物界の図鑑』『旅行記』を刊行することを述べますが出版前の1716年11月2日に死去しました。晩年離婚騒動があり、ケンペルは遺書で妻には何も残さず甥を第一相続人とし、原稿を含む遺品は甥の所有となりましたが、いぎりすの医師にして蒐集家ハンス・スローンが、ケンペルの序文の予告から、『今日の日本』にあたる原稿の所在をつきとめ、甥であるヨハン・ヘルマンと交渉し、1723年から25年にコレクションを入手しました。甥がだした譲渡の条件は、英語とドイツ語での出版であったため、1727年 ロンドンで『日本誌』が刊行されました。これはケンペルの原稿をもとにしつつ『廻国奇観』から日本に関する6編の論文を加えたもので、そのなかに「鎖国論」として有名になる論文があります。その後、『日本誌』はフランス語、オランダ語訳、のちにドイツ語版が刊行されました。

 

 ハンス・スローンに購入されたケンペルの遺品はスローンコレクションの中にはいりました。

 

当時、スローン別邸は、「ミュージアム・アンド・ライブラリー」と呼ばれるほど大量の博物資料、書籍、写本類で、博物資料3室 図書資料は6,7室

博物資料;エメラルド、サファイア、ルビー、ダイヤモンドなどの宝石類、昆虫類、多種多様の貝殻、サンゴ、動物標本など2万点、古美術コレクション; エジプト、ギリシア、ローマ、イギリス、アメリカ、日本のものまで、数千点。古い貨幣が3万2000点、絵画、素描300点とも言われました。

スローンは、「遺産をすべて国家に寄贈する。その際、2人の娘にそれぞれ1万ポンドずつ」という遺書を残して1753年1月10日に死去、3月19日に議会で議論さた後に承認されると、国家的な博物館、後の大英博物館が創設されました。したがって、スローンコレクションを土台とした大英博物館には、創立当初から日本関連の文物(ケンペルコレクション)が入っていたことになります。

 実際、現在までにケンペルースローン由来の日本関連文物についての調査も進んでおり、書籍などは大英図書館に、そのほかは大英博物館民俗学部門、および日本工芸美術部門に収集されています。

 

【参考文献】

ケンペル著作

斎藤信訳、ケンペル『江戸参府旅行日記』平凡社 1977年 

(主な研究書)

国立民族学博物館・ドイツ日本研究所編、発行『ケンペル展 ドイツ人の見た元禄時代』(1991年)

オイルシュレーガー・ハンス・ディター「民族学の立場から見たケンペルの日本コレクション」(国立民族学博物館・ドイツ日本研究所編、発行『ケンペル展 ドイツ人の見た元禄時代』(1991年)118,119頁。

 

斎藤信訳、ケンペル『ケンペル 江戸参府旅行日記』、(平凡社東洋文庫、ワイド版2006年)

小堀柱一郎

中直一訳、ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー 『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中公新書、1994年)

中直一訳、ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー 『ケンペル 礼節の国に来たりて』(ミネルヴァ書房、2009年)

ヨーゼフ・クライナー編『ケンペルのみた日本』(日本放送出版協会、1996年)

大島明秀「ケンペル─体系的な日本像をまとめた旅行研究家」 -(ヴォルフガング・ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌眞人共編『九州の蘭学─越境と交流』(思文閣出版、2009年)