1873年ウィーン万博の日本からの出品物および土産物は、現地で販売されていました。当時の万国博覧会は、世界の最新技術で作られた製造品を展示(出品)することでしたので、その製品には材料、価格、製造法などを記したキャプションがつけられ、販売されました。そして出品物には優秀なものについては褒章が与えられました。
日本の出品物も褒章を受けましたが、最も賞を授与されたのは衣服・織物で、次いで木具・竹細工、紙(和紙、壁紙)、陶器・硝子器、金銀・銅鉄細工などの順でした。工芸品は会場内に2店設けられた売店でも販売され、「扇、団扇ノ如キハ一週日間ニ数千本ヲ売尽シタリ」と報告書に記されています。(田中芳男・平山成信編『澳国博覧会参同記要 上編』、40頁。)
開幕後にウィーンに到着した岩倉使節団は万博会場を訪れたが、その行程を記録した久米邦武は『特命全権大使 米欧回覧実記』にも、「尤モ多ク売レタルハ、小切レト扇子ニテ維納ノ人気、此場ニ入リテ、日本ノ物品ヲ買テ帰ラサレハ、人ニ対シテ緊要ノ珍ヲ遺却セル如キ思ヒヲナシ、競フテ群リ来リ、其閙ヒ一方ナラス」と記しています。(久米邦武編、田中彰校注『特命全権大使 米欧回覧実記五』(岩波書店、1982年)、52頁。)
その他にも、日本製品を売りたいとの申し出がありました。
日本政府は万博会場内に日本庭園を造営し、日本家屋などを設置しましたが、会期後半、イギリスのアレキサンドル・パーク社が日本庭園と家屋の購入・移築を申し入れると、その販売を担当するために半官半民の起立工商会社が設立されました。イギリスのアレクサンドル・パーク社が、会場内につくられた日本庭園をまるごと、小石にいたるまでを購入するということでした。その建物をロンドンに移築して、そこで日本からの品物を売ることを考えたからです。19世紀末、ロンドンには「日本人村」という日本の品を販売する場や、日本に関する展示、興行がおこなわれていましたが、そのことは別記事にて記します。
さて、この提案に対して商品取引に官吏が関与することはできないが、日本の販路拡張のためということから、販売員として随行していた製茶商松尾儀助と、古物商若井兼三郎の二人を中心にし、日本の輸出工芸品の製造・海外での販売・万博への出品を担う半官半民の会社、起立工商会社が設立されました。
ウィーン万博後も起立工商会社は万博への出品や輸出工芸品の製作を担いました。製造販売種目は、漆器、陶器、銅器、織物縫物類、寄木細工、竹細工、小間物(象牙細工、扇団扇、藤細工、手遊類)、茶、紙などで、社員数は80余名にものぼりました。別記事で、渡辺省亭が1878年に起立工商会社に職し、1878年パリ万博に派遣されたことを書いています。
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1876年フィラデルフィア万博、1878年パリ万博にも出品物を製造して現地に送り、77年にはニューヨークに、78年にはパリに支店を開設しました。アムステルダムのファン・ゴッホ美術館蔵の作品のなかには、「起立工商会社」の社名入りの茶箱の蓋の裏側に「三冊の小説」と「ヒヤシンスの球根」を描いたゴッホの作品があります。
ウィーン万博にむけて、博覧会事務局は附属磁器製造所を設置して出品用の陶磁器(のちの輸出用に向けて)を製造しました。しかしながらこの製造所は博覧会終了後の閉鎖が決定そていました。そこで、この付属製陶所庶務会計主任であった河原徳立が画工や陶工を引き連れて「瓢池園」を設立します。1876年には森村組(輸出陶器と合併して、ノリタケ)も創設されました。1879年には有田で香蘭社が創設されました。
参考
宮地英敏「起立工商会社と政府融資」(『経済学論集』71-4、(東京大学経済学会、2006年))
角山幸洋「起立工商会社と松尾儀助」(『関西大學經済論集』 47(2)、1997年、241-292)
樋田豊次郎『明治の輸出工芸図案―起立工商会社の歴史』(京都書院、1998年)。
田中永吉『政商松尾儀助伝 海を渡った幕末・明治の男たち』(文藝社、2009年)
樋田豊次郎『明治の輸出工芸図案―起立工商会社の歴史』(京都書院、1998年)
東京国立博物館編『明治デザインの誕生―調査研究報告書『温知図録』-』(国書刊行会、1997年)
安永幸史「起立工商会社の輸出工芸品製造事業に関する考察」(『美術史論集』(神戸大学美術史研究会、12巻、2012年)
宮地英敏『近代日本の陶磁器産業 産業発展と生産組織の複層性』(名古屋大学出版会、2008年)