在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究 

在外日本関連コレクションの調査・研究報告 https://researchmap.jp/mamiko

1851年 第一回ロンドン万国博覧会 

1851年、ロンドンで第1回万国博覧会が開催されました。会場となった「クリスタルパレス水晶宮)」は、3,800トンの鋳鉄と700トンの錬鉄、30万枚のガラス、60万立方フィートの木材を用い、英国の絶大な工業力を誇示され、会場の西半分がイギリスの展示場であり、西から中央部にゆくにつれ、カナダ・ノヴァスコシア西インド諸島などの植民地となり、中央部が英連邦大の植民地インドの展示場でした。

144日間の会期中に604万人の入場者を集め20万ポンドの収益をあげました。

その時の展示品を収蔵し、会期終了後も人々に見せることで、産業の推進(見ることでの啓もう)することを目的に、サウス・ケンジントン博物館、現在のヴィクトリア&アルバート博物館が建てられました。

 

ヴィクトリア&アルバート博物館では、当時の水晶宮、開会式のヴィクトリア女王とその家族の絵画、展示品などは、今でもV&Aの常設展示で見ることができます。

 

Study Room resource: The Great Exhibition - Victoria and Albert Museum

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1851ロンドン万博展示@V&A 水晶宮模型、展示品、開会式絵画

 

 

絵画は、開会式を訪れたヴィクトリア女王と家族です。

collections.vam.ac.uk

 

V&Aのサイトで、great exhibitionで検索すると、第1回ロンドン万博関連の所蔵品がでてきます。

 

大英図書館のサイトにも1851年ロンドン万博のコレクションがあります。

British Library

ロイヤル・コレクションにもこの万博に関する絵画コレクションがあります。

The Great Exhibition of 1851

 

当時の会場の様子のバーチャルツアーもあります。

The Great Exhibition Virtual Tour - Hyde Park - The Royal Parks

 

1851年ロンドン万博は、万国博覧会として第1回でした。日本語ですと「万国博覧会」という訳ですが、当時、万博には、international exhibition, world's fair、 exposition universelleなど時々によって名称(自称)が違います。

その中でも、この第1回の万博は、Great Exhibitionという名称で開催され、今も、この名称で第1回ロンドン万博のことを指します。

 

このロンドン万博には日本は参加しておらず、中国の展示品に日本の展示品が混じりこんでいたが、日本製品として認識されませんでした。

 

中国の展示場は、中国からの大きな花瓶・清朝官僚の肖像画・青銅器・陶磁 器・屏風・牙彫・七宝焼などが展示された。郵送、出品したのは、中国の福州駐在総領事を務 めていたオールコックです。彼が選んだ工芸品の青銅器や象眼細工、陶磁器、エナメル 細工などが展示されました。馮赫陽「初期万国博覧会に見られる「中国趣味」から「日本趣味」への趨勢について」(『東アジア文化交渉研究』(3)、2010年、513頁。)

 

オールコックは、次のロンドン万博では駐日公使として日本から自身が保有する日本文物コレクションを郵送、出品しました。

 

 

和紙コレクション パークス、オールコック、シーボルト

和紙は、レンブラントが長崎のオランダ商館からの輸入品をつかっていたことがわかっています。(貴田庄『レンブラントと和紙』(八坂書房、2005年)

20世紀末のウィーンでも画家たちの刷り物作品の展示で材質を見ると和紙ということが多々あります。

和紙は、シーボルトも収集して、本国に送っていたほか、1862年のロンドン万博(オールコックのコレクションより)、1867年パリ万博、1873年ウィーン万博でも出品されました。

 

現在、イギリスのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)には、第二代駐日公使を務めたパークスによる和紙のコレクション保管されています。

パークスの駐日公使としての日本への着任は1865年 ですが、それ以前は駐上海領事で、1865年には上海の王立アジア協会の会長に就任し、来日以降、日本での学術団体(のちの日本アジア協会)設立にも関与しました。

日本アジア協会 設立経緯② - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

1969年、グラッドストーン英国首相は外務大臣に対して和紙の調査報告を督促します。(すでに1862年ロンドン万博には初代駐日公使オールコックが自身のコレクションを日本の出品物として展示。そのなかに和紙がありました。オールコックとロンドン万博については別記事で。)

 

パークスは、1871(明治4)年にイギリス議会に『日本紙調査報告』と和紙コレクションを送りました。それらはサウスケンジントン博物館(現V&A)に保管されることとなりました。また、和紙の原材料となる植物についてキュー王立植物園が興味を持ち、長崎領事館が収集、標本がキュー王立植物園に送られました。

(町田誠之「パークス・コレクションの意味するもの」紙の博物館編『海を渡った江戸の和紙 パークス・コレクション』(求龍堂、1994年)所収、16、17頁。)

 

キュー王立植物園には、金唐紙の見本帳11冊も収蔵されています。(松村恵理『壁紙のジャポニスム』(思文閣出版、2002年)、75頁。)詳しくは壁紙コレクションの記事で触れたいと思います。

 

パークスコレクションについては、「海を渡った江戸の和紙 パークス・コレクション展」が1994年にたばこと塩の博物館岐阜市歴史博物館にて開催されています(主催は紙の博物館、と前記2つの博物館)。

パークスコレクションについては図録 紙の博物館編『海を渡った江戸の和紙 パークス・コレクション』(求龍堂、1994年)、久米康生『和紙 多彩な用と美』(玉川大学出版部、1998年)などがあります。また、当時の紙そのものの性質についての研究もあります。

(稲葉政満、小宮英俊「パークス和紙コレクションの紙質調査」(東京藝術大学美術学部紀要」(32)、1997年、5-77頁。)

 

V&AのPauline Webber氏によるパークス・コレクションについての論説もあります。

The Parkes collection of Japanese paper - Victoria and Albert Museum

 

和紙に特化したコレクションはとても珍しいですが、オールコックシーボルトなどの収集品にも和紙がありました。

 

オールコックの和紙コレクションも、ヴィクトリア&アルバート博物館にあります。

 

オールコックは、1862年ロンドン万国博覧会に、自身のコレクションを日本から郵送し日本展示物として出品します。その中に紙製品もありました。オールコックは熱海に旅行した際に和紙について強く印象を持っていました。

楠本町子「1862年第2回ロンドン万国博覧会における「日本」(『愛知淑徳大学論集』(40)、2015年、62-64頁。)

久米康生「オールコック収集のからかみ」(紙の博物館編『海を渡った江戸の和紙 パークス・コレクション』(求龍堂、1994年)所収)

1862年第2回ロンドン万国博覧会とオールコック - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

 

シーボルト(父子)の収集のなかにある和紙コレクションは、オランダライデンの国立民族学博物館ミュンヘンの五大陸博物館にあります。

次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトが集めた約12万枚の型紙のうち5200点はウィーンの民族学博物館(現世界博物館)8000点以上はウィーン国立工芸美術館(現MAK)にあります。

シーボルトと同時期の商館長スチュルレル(Johan William de Sturler)収集の千代紙はパリの国立博物館に収蔵されるなど各国に和紙が収蔵されています。

 

植物を原材料とする日本の紙が、日本人の生活の中で多様に使用されている様子を、オランダ商館長、館員などが報告したり、幕末に日本を訪れた外国人たちが注目しました。

 

日本側も豪奢な壁紙として、また工芸品の材料としての紙(擬革紙)を開発し、各国に輸出を考えました。拝啓には欧米の紙の原材料が古布であり、日本の紙の多様性が注目されていたことがあります。

 

しかしながら、紙の大量生産のための安パルプ原材料の紙などが開発されたため注目度が下がり、パークスコレクションも長い間博物館の倉庫に眠っていたことが指摘されています。(増田勝彦「パークス・コレクションとその時代」紙の博物館編『海を渡った江戸の和紙 パークス・コレクション』(求龍堂、1994年)所収18-22頁、久米康生『和紙 多彩な用と美』(玉川大学出版部、1998年))。

 

ウィーン万国博覧会と日本④ ウィーン万博研究の今2022

 

1873年ウィーン万国博覧会 日墺からみた明治日本の姿』(思文閣出版、2022年)が刊行されました。

1873年ウィーン万国博覧会|出版|思文閣 美術品・古書古典籍の販売・買取、学術出版

 

拙稿これまでの研究から進めたことは、以下、2点です。

①ウィーン万博への正式な参加決定の時期について、オーストリア=ハンガリー帝国公使の着任、天皇への謁見の時期と重なっていることを考察

②ウィーン万博参加決定が、岩倉使節団出発後であり、いわゆる留守政府の大隈、佐野常民佐賀藩が主導という点から、1867年パリ万博への佐賀藩の参加、さらには、それ以前より続く佐賀藩の有田焼のアジア、ヨーロッパへの輸出について、近年の考古学分野の出土研究(アジア、アフリカ、中南米など)にも留意しながら考察しました。

 

1873年ウィーン万国博覧会は、政府報告書である、田中芳男・平山成信編『澳国博覧会参同記要』(森山春雍、1897年)があります。(国会図書館デジタルライブラリー)

 

明治政府が正式に初めて参加した万博であり、その後の万博参加のモデルともなったため、すでに研究の蓄積があります。代表的なものは以下の通りです。

角山幸洋『ウィーン万国博の研究』(関西大学経済政治研究所、2000年)

藤原隆男『明治前期日本の技術伝習と移転 ウィーン万国博覧会の研究』(丸善プラネット、2016年)

戸田清子「近代日本における博覧会の産業振興的意義と役割―ウィーン万国博覧会を中心に」(『奈良県立大学研究季報』20巻・3号、2010年)

阿部大地「ウィーン万国博覧会に出品された天産物」(洋学25号、2018)

坂本久子「日本の出品にみるフィラデルフィア万国博覧会とウィーン万国博覧会の関連」(『日本デザイン学会研究発表大会概要集』54、2007年)

ウィーン万国博覧会と日本③ 日本からの出品物の現在ー応用美術博物館(MAK)

ウィーン万博の日本出品物は、展示終了後、イギリスのアレキサンドル社が購入した分はイギリスへ送られましたが、ウィーンにも数々の出品物が残り、現在も世界博物館、応用美術博物館にて展示されており、見ることができます。

ウィーン万国博覧会と日本② 日本の展示品の現在 世界博物館、トルコ、有田、東京国立博物館 - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

第1回の万国博覧会は1851 年にロンドンで開催されました。万国博覧会それ自体は、産業革命とそれにともなう帝国主義の拡大―植民地政策の延長上にあります。自国(含む植民地)の製品、産物が他国より多く、かつ優れていることを自負するイギリスが第1回というのも時代の状況をあらわしています。

 

そして万国博覧会は、各国の同じ種類の製品が並んでいる競争の場であり、そこから見ることで学ぶ場でもありました。博覧会は、時限的であるため、出品物を恒久的に展示し、見て学ぶ場、施設が必要であるということから、工芸品の博物館が創設されました。ケンジントン博物館、現在のヴィクトリア&アルバート博物館です。また、博物館の展示だけでなく、技術向上のための教育施設も併設されることが考案されたほか、同様の博物館が他国にも作られます。その一つが、1864年に開館したオーストリア帝立=王立芸術産業博物館、現在のオーストリア応用美術博物館(MAK)です。ほかには、ベルリンにはドイツ産業博物館が、ハンガリーにはブタペスト国立工芸美術館が創設されました。

ブタペスト国立工芸美術館陶磁器名品展 ジャポニスムからアール・ヌーヴォーへ - 在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究

【参考文献】

天貝義教「ウィーンのオーストリア応用美術博物館 」池田祐子編『西洋近代の都市と芸術4 ウィーン 総合芸術に宿る夢』(竹林舎、2016年)所収〉

池田祐子「ベルリン工芸博物館と日本 ―東アジア美術館設立をめぐって」(『立命館言語文化研究』(31(4))、137-149頁。

 

 

オーストリア藝術産業博物館には、ウィーン万博の日本からの出品物が収蔵され、展示されていましたので、その後継である応用美術博物館にも日本の出品物の美術工芸品が収蔵、展示されています

 

現在、応用美術博物館(通称MAK)の日本展示は、この写真のように、床にじかに置かれて、木材でしきりられたブースにあり、透明なガラスで見ることができます。

デザイナーの「日本は床に(畳?床の間??)置いてみる文化なので、そのようにした」という意図らしいのですが。。。展示物を見るのにかがみこまないといけません。

大香炉 大島安太郎作が中央にあります。

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大香炉(中央) 大島安太郎作 ウィーン万博出品物



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MAK応用美術博物館 現在の日本展示ブースより(中央にある香炉)

MAKにはハインリッヒ・フォン・シーボルトによるコレクションも収蔵されています。

 

ヨハネス・ヴィーニンガー「ウィーン、オーストリア応用美術博物館(MAK)所蔵のハインリッヒ・シーボルト・コレクション」(日高薫責任編集『異文化を伝えた人々Ⅰ』(臨川書店、2019年))

ヨハネス・ヴィーニンガー「ウィーン応用美術博物館所蔵のハインリッヒ・フォン・シーボルトによるコレクション」(日高薫/ベッティーナ・ツォルン責任編集『異文化を伝えた人々Ⅱ』(臨川書店、2021年))

 

Stories of Clay:Discovering Choson Korean Potters in Tokugawa Japan  江戸時代の朝鮮人陶工の物語 展覧会

スペイン バルセロナのAutonomous大学のAftermath of the East Asian War of  1592-1598 プロジェクトの一環として江戸時代の朝鮮人陶工についての展覧会Stories of Clay:Discovering Choson Korean Potters in Tokugawa Japan  (オンライン)があります。

aftermath.uab.

 

実際の展覧会のような体験をと、web上で5つの部屋(起源・日本での生活・技術・適応・影響)のサイトに入り、展示と説明書きを読むことができます。

いずれも、実物(出土遺物や古文書、絵図)に解説がありますが、とりわけ、連れてこられた陶工と彼らの生活(room2)は見ごたえがありました。

 

中でも、器(bowl)にハングルで当時の生活を詠んだ詩がかかれたものや、苗代川での生活の様子、陶工ではありませんが、連れてこられた官人姜沆と彼の『看羊録』の紹介もありました。また、技術では窯や製造に使う道具、さらには茶の湯文化、高麗茶碗などの茶道具としての発展といった観点からの解説もあります。

 

ヨーロッパでの日本陶磁器の展覧会は、物(東洋趣味・磁器の開発)や交易(オランダ東インド会社、出島、商館など)についての観点が主流ですが、このように日本の陶磁器の黎明期や秀吉の朝鮮出兵朝鮮人陶工、彼らの日本での生活、茶の湯文化と陶工など、とても興味深いexhibitionです。

このオンライン展覧会では、幾人かの朝鮮人陶工とそれぞれの地域での様子が紹介されています。その中の一人、有田の百婆仙は有田焼の母とも称され、数百人もの陶工を指導したといわれています。

 

彼女をモデルとした韓国ドラマ『炎の女神ジョンイ』があります。日本に来る以前の話ですが、当時の朝鮮での陶工、宮廷の陶磁器製造所、貿易商などが舞台となっており、面白いドラマです。

バチカンコレクション シンポジウム開催、アニマ・ムンディ(布教民族博物館)など

バチカン コレクション調査②

 

バチカンの所蔵する史資料についてのシンポジウムがおこなわれます。

バチカンに眠る日本の記憶~文化と交流450年・教皇の知り得た日本~ | バチカンと日本100年プロジェクト

 

所蔵されているシドッチ関係史料、マレガ史料群についての報告があります。

マレガ史料については国立国文学資料館がマレガ文書群についてのデータベースを公開しています。

フォンド・マレガ ファイル A25 | データベース | マリオ・マレガ資料データベース

 

バチカン布教民族博物館Misionero Ethnological Museumが所蔵する日本関連コレクションについての報告もあります。

 

 

バチカンが所蔵する文書については、これまでにも言及されたことはありますが、バチカン布教民族博物館のコレクションについては希少であるように思います。

布教民族博物館は、1925年にラテラン教皇宮殿にて宣教をテーマにした展覧会がおこなわれ、翌年常設展示を目的としてラテラン教皇宮殿内に博物館・宣教師民族学博物館(Pontifico Museo Missionario-Etnologico)が設置されました。教皇ピオ11世によります。その後、1963年、ヨハネ23世によりバチカンに移され、パウロ6世が建物を整備、1970年に一般公開されました。しばらく閉じられていましたが、2007年にアジア・オセアニアの全室公開を皮切りに順次公開され2019年11月、「世界の魂」を意味する「アニマ・ムンディ」との名称が教皇フランシスコによりつけらました。

https://www.museivaticani.va/content/museivaticani/en/collezioni/musei/museo-etnologico/museo-etnologico.html

アジアとして収集、展示されている日本関連の文物の全体像もですが、宣教がテーマの展覧会が前身ということ、また現在の展示の区分、展示の仕方、内容なども全貌がわかるとよいのですが、なかなか情報が少ない博物館ではあります。

webサイトからオンラインでも所蔵物などは見られるようですが、展示にせよオンラインにせよ、一部であること、また展示の区分などからみる布教・世界をみる視座なども興味があります。

日本関連では、キリスト教禁令の高札、踏み絵(レプリカ)などが所蔵、展示され、仏画や神社模型、アイヌの民族衣装などで日本やアイヌの宗教文化を紹介しているようです。

 

イギリス ロイヤルコレクションの日本文物③ 増上寺 台徳院殿霊廟

 

イギリスのロイヤルコレクションの中には、1910年にロンドンで開催された日英博覧会の出品物「増上寺台徳院殿霊廟模型」があります。この模型は博覧会終了後、ロイヤルコレクションに加えられましたが、修復を経て、増上寺に長期貸出され、2015年4月より公開されています。

 
国際的な博覧会の開催は、早くから政府の中でも協議されましたが、日清・日露戦争後にイギリス・ロンドンで1910年に日英博覧会が開催されました。
日英博覧会はその名称から2国間での博覧会という響きですが、実際はキラルフィーという興行師の企画によるもので、日本側のみが政府による公式参加でした。また長谷川如是閑などが現地を訪問しますが、会場内に作られた日本人村(日本人の住まいを再現し、なかで工芸品作成を実演)などを見て、見世物のようになっていると不満を著し、国会でも議論がされました。
 
会場内では、日本の生産物、日清・日露戦争後ということで新たな版図となった植民地における産物などの展示ほか、日本村が作られて日本の工芸品がその場で作られる実演販売が行われたり、相撲興行(初の海外公演)などもありました。
伊藤真実子『万国博覧会と明治日本』。)
その展示の一つが、日本の建築物の紹介として実在の「増上寺台徳院殿霊廟」のミニチュア模型です。
そのほか、会場内には西本願寺の勅使門(唐門)の複製が建てられました。博覧会終了後にキューガーデンに移築され、現在もジャパニーズランドスケープ区域内似て公開されています。
 
建築模型は、ウィーン万博の展示品にも大名屋敷模型がありました。これは現在ウィーンの世界博物館で展示されています。